研究レポート

静坐法のこと

東京都江東区 大丸敏之

大丸敏之さん;

静坐法はずーっと好きになれませんでした。
合宿の夜の静坐法は居眠り。呼吸は浅くてお腹に届かず、背筋をのばすと緊張し、ゆるめると背中が曲がります。頑張っても15分ほどでひざがいたくなりました。うまくいかないから、あまり練習をしない。そういう難しい功法なのだと私は思い込んでいたのです。

ある年の樹林練功会、帰りに一緒になった女性から、立って練習ができないほど体が弱かったという話を聞きました。
「ではどうして、何年も続けることが出来たのですか?」
「静坐法をやっていましたから」
「それだけをですか!?」
「ええ」
当然のようにそう云われたので驚きました。同時に羨ましく思いました。
私の静坐法は悪戦苦闘の繰り返しです。とてもこれだけを何年も続けることはできません。しかし、もう一度初心にかえって練習してみようと思いました。

静坐法は簡便な方法です。起きて布団の上に坐っても、ベッドの縁に掛けてもすぐに出来ます。やりやすい功法なのです。
慣れたら少しずつ長くすることにして、とりあえず毎朝10分間の練習を続けてみようと思いました。最初は楽に坐れるようにざぶとんをあてがい、『推手』という映画の老太極拳家のやり方を真似て、練習の前に腰から深く身体を折りたたむ姿勢を数秒行いました。固い体にはなかなか効果的な方法だったようです。

朝の練習を続けた結果、少しずつ坐ることに慣れ、ひざの痛みも軽くなりました。いつも緊張していたお腹がようやく腰におさまるようになり、楽になった姿勢のおかげで練習時間も延びました。

いつもより長く坐れた日のことです。続けていると、これまで感じたことのない充実感がありました。体も気持ちも、無理がなく、静かで実に楽な状態です。
あれこれ意識を働かせずとも、その状態がおのずからそのまま安定している。そういう何ともいえない感覚です。
この日を境に苦手だった静坐法を積極的に練習するようになりました。

太極拳数年前の合宿の夜、静坐法の姿勢を一人ひとり先生にみて頂いたことがあります。
順番が近付くにつれ高なる鼓動。前に立たれた先生が皆さんに「いかがですか?」と印象を聞かれます。私はあがってしまいボーッとなりました。
すこし考えられたあと、先生は右手の中指を私のみぞおちの少し上にあて、左手中指を丁度その裏側のあたりにつけて、背中から軽く押されました。

その瞬間は何も感じなかったのですが、しばらくして背骨の下にはっきりとした感覚が伝わりました。腰と背骨が繋がる感覚でした。これは、はじめてです。
茶話会も済んで机を片づけながら、先生が
「どうでしたか?」
「しばらくして腰がつながりました」と私。
先生は「はっはっは」。

「背を抜く」ことがよく分からなかったのです。胸をゆるめると同時に、合わせて少しだけ背中を「弓形」に凹ませる。「抜く」という表現は背中からトントンと「胸の方に抜いていく」ということでしょうか。
つまり背と胸の「前後」の協調が必要であるというわけです。実際この方法で腰と背骨は繋がりました。とてもうれしい体験でした。
ほんの少しのことで身体が変わる。調整の妙というものに触れた思いでした。

坐った時の私の下半身はなかなか安定しません。クワが固いので深く組めず、片足だけが高くなり、膝と腰に負担がかかるのです。下半身の安定が私の静坐法の重要な課題でした。
足が痛くなる時は無理をしないで椅子にすればよかったと思います。
下半身の安定は私の静坐法のポイントその一です。
その二は、腰と背中を繋ぐこと。無極静功姿勢の二十四要の「舒胸松腹」「抜背要円」を先生の軽い一押しで教えて頂いたような気がします。
「前後のバランス」は私が漠然と思っていたような位置の問題だけでなく、胸と背、腹と腰を協調させる内部の問題でもあったのだと思いました。そして、お腹に力を込めず「お腹の柔らかさを常に保つこと=松腹」が「意守丹田」の真意なのだと思います。
ポイントその三は首です。猫背の私は、首をのばすと気感がのびやかになるので必ず注意します。
その四は口。口に力みがある時はまだ十分でなく、より細かく調整するようにします。
最後は眼です。薄く開けた眼(半眼)と揺れのないまっすぐな視線(正視)はそのまま「意定」を表しています。

静座法足を組む。最初は閉眼のままである。膝、腰から背骨、首、頭の上下を整える。鼻先を合わせ、両腕は左右のバランスを軽く調整する。腰と腹、背と胸、眼と後頭部と、上中下の要所を意識してみる。
姿勢を整えしばらく待つと内部に動きがあり、体が暖かくなります。左半身の断続的なうねりで体が大きくねじれるのは私の癖ですが、これも体にまかせます。
知らず知らず雑念が浮かび、気が付いて姿勢にもどる。このプロセスを繰り返すこともしばしばです。練習を続けるか離れるか迷う時です。

しかし、閉眼のまま続けてきた練功が、いつしか半眼状態に入り、まぶたから薄く外界の光りが差し込みつつあるそんな時は、すでに十分な安静状態に入っているのです。
この時は持続する何かを感じとるように静かに続けます。「待つ」だけです。ただ待つだけで十分、とでも云うように。

十二の功法にはそれぞれの尽くし難い味があります。しかし静坐法には独特の味わい深い雰囲気があるようです。


研究レポートの目次

研究レポート6


ホーム

連絡先

Copyright (C) 2000 無極静功日本 All rights reserved
( WUJIJINGGONG JAPAN )
info@taiji-wuji.org