研究レポート

行歩に学ぶ

加藤 肇

加藤 肇さん;

無極静功に接してから早くも7年となった。当初「健康体操」程度の認識だったのが、陰陽の哲学、それも宇宙論にまで及ぶ思考の世界を持つ太極論を齧っている自分の姿が不思議に思える。厳密には理解できないところがあるものの、何か奥深いものに惹かれているようである。 このような深淵な思考の世界が実は、気功の細かい動作と ― とてつもなく微細な指先の動きにまで ― 「つながっている」という思想は他では出会ったことのない新鮮なものであった。

この7年間、12法、24式、と全く同じ動作を繰り返しながらも、時折、先生や諸先輩のご指導によって、新しい発見をしながらゆっくりではあるが動作や姿勢もすこしづつ進化している筈だと自分を納得させている。

非常に興味深いのは、ひとつの動作・姿勢について、一時期納得して自己満足状態でしばらく過ぎるのだが、ある日今まで気がつかなかったことに突然気がついて、改めて初心に帰って謙虚に見直すと、まさに「目から鱗」で、それまでの自己流の浅薄な理解を恥ずかしく反省させられることがよくあることである。

最近では、そのような経験は、「行歩」にあった。 7年前最初に「行歩」に出会った時は、要するにその言葉通り、歩いて行くだけだから、多少ゆっくり歩くことに難しさはあってもそれほど深い意味は無いのではないかと思っていた。ところが、正確な記憶はないのだが、それこそある日突然に、『とんでもない!「行歩」が12法のすべてを含んでいると言っても過言ではないのだ!』という啓示を得た。誰かにそのように言われたのではない。自分でハッと気が付いたのだ。練達の諸先輩にとっては自明のことなのであろうが、私にとっては大きな発見であった。

「行歩」はまず、正しい姿勢で立たなければならない。正しい姿勢というものがどれほど高度な内容を含んで難しいかは研修会の太極拳論などで繰り返し教えられている通りである。

そしてゆっくりと左足を出す。右足はしっかりと体重を支えて安定していなくては、ゆっくりと余裕をもって左足を動かすことはできない。左足を出すといっても、その移動のポジションを5ミリとか1センチ単位ぐらいで細かく完全にコントロールして、自分の思うスピードを与えられなければならない。左足を静かに地につける。このタイミングの微妙さ。それからの体重の移動。右足に100%かかっていた体重が、99%、98%、97%、、、0%になるまで、なめらかに、ゆっくりと、安定した姿勢を保ちながら移動して完結してゆく。この間、上半身は上下左右に揺れたりせず、何事も無かったかのように安定している。わずか数秒の間にこのようなことが起こっているのだ。 「静の中の動、動の中の静」というような表現を身近に感じる。そして次ぎは右足を出す。左右の足が代わっただけで動作がぎこちなくなったりすることのないよう、同じレベルのコントロ−ルが要求される。

「行歩」は下半身だけの動作ではない。上半身には、「托天」、「運気法」「白鶴展翅」そして「収功」の動作が加わる。どれひとつとってもそれぞれに高度で繊細な心身のコントロールが必要であり、しかもそれに加えて上下半身の動きと調和させなければならない。そして呼吸。正しい呼吸が備わっていなければならない。まさに12法の集大成と言ってもいいのではないだろうか。

このようなすばらしい世界を「行歩」は持っているのに、私はかなり長い間あまり注目していなかったことを今恥じている。完成の姿には程遠いのだが、少しでも理解を深めてゆく努力をしていきたいと思う。

この頃は、普通に歩いている時も、ふと「行歩」ができないかと思って、意識して歩き方を調整してみたりする。すると、そのとたんに肩の力が抜けて足も軽くなったりする感覚があることがある。勿論、練功のようにゆっくり歩くわけではないのだが、それでも違いを感じる。練達すれば、いつも自然に「行歩」できるのであろうか。興味のあるところである。

「行歩」だけによるのではないが、無極静功によって得たと思われる感覚がもうひとつある。 それは、右足と左足をそれぞれ独立して動かすという感覚である。

手・腕の動作は、食事の時を思い浮かべれば明らかなように、左右で同時に異なる動作をすることがほとんどである。従って、我々の意識も左手、右手をそれぞれ自由に独立して動かすのが当然になっている。それに対して、足は主として歩行走行のために使うので、ほとんどの場合、左、右、左、右、と交互に同じ運動をする。従って、左を出してすぐ右を出しというのは、いわばワンセットになっていて、今左を出した、今右を出したというように、左右の足それぞれの動きを別々に意識することがないように思われる。ところが、「行歩」の時は、「歩く」には違いないのだが、「今右を出す」、「これから左を出す」と、それぞれに意識を集中しないとできないのだ。つまり、左足と右足が別々のエンジンで動かされていて、それぞれ別々の制御機能があってそれを意識しながら歩くとでも表現したらいいのだろうか。左右の足をそれぞれ独立して動かす、つまり、「足を手のように動かす」とでもいうような感覚である。想像であるが、このように通常ではない動き方を体が覚えるということは、脳がそれに対応しているからであり、脳の能力を新たに開発しながら脳の活性化につながっているのかも知れない。

私の一人よがりなのかも知れないが、 無極静功は、このような「歩く」という単純に見える動作の中にもこのような奥深い意味合いを認識させてくれたのであった。これからもこのような新鮮な発見が続いてゆくことを期待している次第である。


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